日本医事史 抄

医師法成立以前


緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉の「福翁自伝」によると、適塾に近い中之島に、華岡塾「合水塾」(華岡青洲の末弟、華岡鹿城が開き、その末子良平が嗣いでいる)があり、数百人に及ぶ門人は裕福で、服装も立派で、中々以て蘭学生の類ではない。

適塾の門人達が華岡塾の門人達と往来で出合うと、ものも言わずに互いに睨み合って行き違った後で、「あの様は何だい、着もの許り綺麗で何をしているんだ、空々寂々チンプンカンプンの講釈を聞いて、その中で古い手垢をつけている奴が塾長だ。こんな奴らが2千年来の垢じみた傷寒論土産にして、国に帰って人を殺すとは恐ろしいじゃないか」と云って気焔を吐いたのは毎度のことで、適塾の生徒は粗衣粗食の貧書生であっても智力思想の活溌高尚なることは、王侯貴人をも眼下に見下すという気位で蘭学修業に没入したものであるという件りがある。漢方に対する蘭方医の心の中がよく窮える。

 これに対して江戸最後の国手といわれた浅田宗伯の逸話は漢方医の胸中をよく現している。浅田宗伯は信州信濃の生れ(1815)で、18才の時、京に出て中西熊治郎の門に入り傷寒論を学び、頼山陽から儒教を学んだ。いろいろの苦節を経て、将軍家茂の御目見医師となり(1861)、遂に法眼に叙せられた。明治4年(1871)に待医を辞して牛込で医業を開いた。最後の徳川医師といわれた様に死ぬまで「医は仁術」を貫いた人で毎日の患者数は数百人に及んだが、その半数は施療患者であった。彼の居宅の玄関には大きな張り紙に「家規」として次の文言が綴られていた。

一、 華族新に請診の向は謝絶すべし、近来西洋に心酔し、其余唾を舐る者多ければなり。
一、 薬価を問う者は拒絶すべし、医は仁術を旨とす、薬価を貧り、診料を掠(かすめ)る者は商賈(商人)に劣るゆえなり、但、志を以て謝礼を致す者は敢て拒まず。
一、 塾生、洋書を読み、洋服を着する者は遽(にわか)に放遂をすべし、当家族十年間、此職を奉じ、漢の術を行へばなり。


漢方、蘭方の双極から似た様な話を拾い上げてみたが、明治の頃とはいへ、トップの学問を修めた者同志、まるで餓鬼と頑固爺(じじい)が唾かけ合って喧嘩している様で、両者の反目は相当に根の深いものであったと思える。

 初めに記した内務省衛生局資料にあるように、明治39年に医師法及び医師会規則が発布されて、医師の身分と医師会の社会的位置付けが法律によって定められたのであるがそれ以前は、前記の如く医学の新知識や情報を求めて任意の「医会」を作っていた。その「医会」なるものを、大阪の「医事合同社」を例にとって探ってみよう。

医事合同社は、明治10年10月、大阪鎭台病院長緒方惟準が有志の医師を集めて結成した大阪の医会第1号である。会員数は192名(大阪市内88、堺県38、その他66)、例会を毎月第2日曜日に開き、機関誌「刀圭雑誌」を月3回発行した。入会金は1円、会費月額30銭、雑誌代金1部3銭5厘である。





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