日本医事史 抄

明治時代

そして時代は一挙に近世から近代に進み、武家政治が崩壊し、王政復古が成り、鎖国が終り、開国が始まり、漢方が追われ、洋方が興り、古い日本の封建的身分社会を打破して、明治維新(1868)の幕が開いたのである。

明治維新以後をふり返ると、その10年前までは世界に向って鎖国を断行していた東洋の島国日本が、日清戦争(明治27、1894)、日露戦争(明治37、1904)を経て第一次世界大戦後(大正7、1920)のパリ講和会議で国際連盟常任理事国


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になり、米、英、仏、伊に肩を並べ世界の五大強国に仲間入りを果した。 明治新政府が如何に渾身の力を振るって国家の近代化に向って邁進したかが窮えるのである。
そして「帝国の繁栄、衝生の外なし」「国家第一の資本は国民の健康」との認識のもとに社会保障制度、特に医療制度の充実に取り組みを進めた。
今、その轍(わだち)を振り返ってみる。

明治元年4月17日、政府は横浜に軍陣病院を設置し、鳥羽・伏見の役等の負傷者の治療を行わせた。
同年7月20日、これを東京に移し「医学所」に合併して「東京大病院」を設立した。
緒方洪庵の子、緒方惟準(これよし)がその初代院長である。

東京大病院は明治2年2月「医学校兼病院」に改称され、相良知安岩佐純が大学権大亟(ごんのだいじょう)に任ぜられ、知安が医学校、純が病院を主掌した。
二人は共に32才、長崎で蘭方を学び、佐倉順天堂の出身で、牛痘種痘の普及に功績があった。相良知安はこれからの日本はドイツ医学を採用すべきであると主張した。

知安の意見は、日本ではこれまで蘭書が読まれてきたが、オランダの医書は、西洋諸国特にドイツの医学をオランダ語に飜訳したもので、今、世界で最も優れているのはドイツの医学であるとするものである。佐賀出身の知安は、同郷の政府重鎮、副島種臣や大隈重信の後押しを得て政府にドイツ医学採用を決定させることに成功した。

政府は直ちにドイツ連邦とドイツ人医学教師雇用の契約を進め、日本人医師にドイツ留学を命じ、それ以後、太平洋戦争が終るまで日本の医学教育はドイツ医学を主にして行われてきたのである。「医学校兼病院」は明治19年に東京帝国大学医学部になり、明治政府はその卒業生に医学教育制度を築くに当っての主導的役割を担わせていた。

 明治元年8月15日、新政府は夛紀氏の「医学館」を接収し、夛紀氏を罷免した。政府の「智識を広く世界に求める」とする方針により漢方は、その拠点を失うことになった。


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