日本医事史 抄

医師法成立以前


 この医事合同社の様な医会は、既に全国各地に大小さまざま任意につくられている。会が大きくなり、又、医師の使命感が膨らむに従って会の中から、組織の法定化を促す声が大きくなってくるのも自然のなりゆきである。

その発端をつくったのが、明治30年3月、第10回帝国議会に「医師法案」を提出した大日本医師会である。大日本医師会は明治26年につくられた医術開業免状を持つ開業医の団体で、理事長に高木兼寛、理事に長谷川泰、長与専斉、佐藤進ら、いわゆる東大設立以前の医師達が集まっている。

大日本医師会が提出した医師法案は、衆議員の解散によって審議未了になった。大日本医師会は翌年の第13回帝国議会に、これを「医師会法案」に名を変えて再提出した。これは、翌32年1月衆議院を通過したが、貴族院で明治医会の反対によって否決された。
明治医会というのは東大卒の医師の集まりで、塾あがりの医師と同列に取り扱われたことへの不満が反対の理由であった。その後、全国の医会の離合集散を経て、明治39年に漸く、明治医会と、全国の医会を集めた帝国連合医会から、夫々が起草の医師法案を衆議院に提出した。

明治医会案は全文18ヶ条からなり、正規の医学校卒業生の特権を守ることに主眼をおき、帝国連合医会案は全文20条からなり、在野の開業医の医権養護に重点をおいた。
両者の法案の相違点は

(1)医術開業試験を認める期間:明治案5年、帝国案10年。
(2)医師会の設立:明治案任意設立、帝国案強制設立。
(3)免許取消しと営業停止:明治案司法処分、帝国案行政処分。


の3点である。衆議院では両案を調整し、(1)は8年、(2)は任意設立、(3)は行政処分とするという折衷案を採り、大日本医会が法案を提出してより10年を経て遂に「医師法」が明治39年3月19日に衆議院、同26日に貴族院で可決をみるに至ったのである。

次いで同年11月、内務省令による「医師会規則」が規定された。医師会規則は、医師会設立の手順や運営、会員の資格、義務を等を定めたもので、全18ヶ条よりなる。
その要点は、

(1)医師会を郡市区医師会及び道府県医師会の2種類とする。
(2)前者は、当該都市及び東京、京都、大阪の三市に居住する医師の2/3以上が総会に出席し、出席者の2/3以上の賛成があったとき、後者については、当該道府県にある都市の2/3以上に医師会が成立しているとき、地方長官の許可を受けて成立することが出来る。
(3)合法的に都市区医師会が出来ると、官公立病院以外の医療施設で医業に従事する医師はすべてその所在地の都市区医師会員になり、又、道府県医師会が設立されると管内の都市区医師会員は、自動的にその会員になるというものである。




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